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山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十八章
――第十八章 牢の外、帳面の内―― 日本橋へ向かう道は、夜でも人が絶えなかった。江戸は眠らぬ。眠らぬのは活気ではない。欲が眠らぬのだ。欲が眠らぬ町では、正義も眠らぬ顔をする。正義の顔をした縄が、人の首へするりと掛かる。 伊織は人混みの中を... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十七章
――第十七章 隠し蔵の灯―― 日本橋の夜は、江戸の腹の匂いがする。 魚河岸の生臭さでも、深川の湿り気でもない。銭の匂いだ。帳面の匂いだ。人の欲が乾いて、空気に粉のように漂っている。橋の上を行き交う足音は絶えず、商家の灯は遅くまで消えない。... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十六章
――第十六章 日本橋の蔵影―― 目潰しの粉は、涙と一緒に怒りを滲ませた。 伊織は畳に膝をつき、袖で目を押さえた。痛みは鋭く、視界は白い。白いというより、雪が眼球の裏に張りついたような感覚だ。耳だけが冴えている。畳を擦る音、障子の開く音、呼... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十五章
――第十五章 志摩屋の腹中―― 敵の懐は、敵がいちばん油断する場所だ。 伊織がそう言ったとき、新兵衛は鼻で笑ったが、笑いの奥に焦りがあった。江戸の底で生き残ってきた男ほど、危ない橋の匂いを嗅ぎ分ける。だが危ない橋を渡らねば、渡った先の景色... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十四章
――第十四章 板橋の風―― 江戸の北へ向かう風は、深川の湿り気とは違う乾きがあった。土の匂いが混じり、街道の砂埃が鼻にかかる。板橋――中山道の入口に近い宿場は、江戸の外縁でありながら、江戸の欲が滲み出る場所でもある。行商人、旅籠の客引き、飛脚... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十三章
――第十三章 藩邸の白刃―― 勘定所を出たとき、伊織の懐には二つの重みがあった。 一つは、土井主計から渡された帳面の写し。餌であることを承知の餌。もう一つは、富岡主膳の印形袋。これは餌ではない。噛みつけば血が出る牙だ。だが牙は持つ者の口も... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十二章
――第十二章 帳面の刃―― 羽織の男の笑いは、薄氷の上を指でなぞるように冷たかった。 「土井主計様は、お前を待っておられた」 待っている――それは罠の言葉だ。来ると読んでいた者が、わざわざ待つには理由がある。理由は二つ。取り込むか、殺すか。あ... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十一章
――第十一章 勘定所の腹―― 土井主計――その名を胸に刻んだとたん、江戸の景色が一段暗く見えた。 富岡主膳という家老の名は、藩の内輪の腐りだ。志摩屋という御用商人は、金が回る口だ。だが勘定所の役人となれば話が違う。幕府の腹を預かる者が、腹の... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十章
――第十章 主膳の面―― 夜明け前の江戸は、いちばん嘘が薄い。 人が起きてくる前、町の顔が化粧をする前、川の流れも風も、ただ冷たくあるだけだ。伊織はその冷たさを好んだ。冷たければ目が冴える。冴えた目で見れば、刃の陰も、笑いの陰も見えやすい... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第九章
――第九章 小石川の雪路―― 夜が更けるほど、江戸の空は澄んでいった。月は薄く、星は冷たく、凍った空気が音まで固めるようだった。深川の長屋を出るとき、伊織は一度だけ障子の向こうに目をやった。お澪の寝息はまだ浅い。熱が引くまで動かせぬ――そう理...