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山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第六十章
――第六十章 戻しの川筋―― 川の上では、言い訳が利かない。 陸では、人は足を止めて考えるふりができる。障子一枚隔て、帳面を閉じ、火を見つめ、誰かのせいにすることもできる。だが舟の上では違う。流れている限り、進むか、止まるか、沈むかしかな... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十九章
――第五十九章 箱に入る前の息―― 本所へ向かう道は、いつもより風が強かった。 川に近づくにつれて、その風は冷たさを帯びる。水の上を渡ってくる風は、どこか人の気配を削ぐ。紙の匂いも、味噌の匂いも、いったんそこで薄くなる。だからこそ、水は流... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十八章
――第五十八章 箱の顔、水の口―― 寺へ戻るころには、夕焼けはすっかり落ちていた。 西の空に残っていた赤も、門をくぐる頃にはもう藍に沈み、境内の石畳だけがわずかに明るさを残している。火の赤ではないと分かっていても、伊織はまだ胸のどこかでそ... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十七章
――第五十七章 高津屋の裏貼り―― 表具屋というものは、古いものを新しく見せ、新しいものを古く馴染ませる。 伊織は西徳寺を出て高津屋へ向かう道すがら、そのことを考えていた。破れた掛軸を継ぎ、擦り切れた経本を巻き直し、綻びた紙背に新しい裏打... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十六章
――第五十六章 西徳寺の紙灯―― 翌朝、空はまだ薄い雲に覆われていた。 陽はあるのに、どこか翳りを含んだ朝である。伊織は井戸水で顔を洗い、その冷たさで胸の内を静めた。西徳寺へ向かうと決めてから、夜のあいだ幾度も目が覚めた。寺が相手だからで... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十六章
――第五十六章 流れた一枚―― 水へ落ちた紙は、もう戻らぬ。 そう思った瞬間ほど、人は浅くなる。伊織は、板敷きの端から黒い水面を見下ろしながら、自分にそう言い聞かせた。流れた一枚はたしかに惜しい。だが惜しさに心を取られれば、手の中に残った... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十五章
――第五十五章 寺社筋の薄明―― 寺社筋――。 その言葉が胸に落ちてから、伊織はしばらく眠れなかった。 寺は戻る場所である。 少なくとも伊織にとってはそうだった。 火と血と帳面の匂いを抱えたままでも、一度ここへ戻れば、人の顔に戻れる。母がい... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十四章
――第五十四章 白紙に残る手―― 杉浦弥之助を縛って寺へ戻る道は、これまでのどの帰り道よりも重かった。 火を止めた夜は、まだ軽い。火が見え、煙が上がり、人が走る。戦がそこにあると分かるからだ。だが白紙の口を塞いだあとの帰り道は違う。何も燃... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十三章
――第五十三章 杉浦弥之助という継ぎ目―― 徳兵衛を押さえたその足で、伊織たちは城下へは戻らなかった。 戻れば戻ったで主水へ報せねばならぬ。主馬にも、あるいは岡野の口から別の筋へも伝わる。だが今、欲しいのは“公”の動きではなく、“まだ私の名が... -
山本周五郎
山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十二章
――第五十二章 味方の顔、白紙の手―― 岡野の横顔は、いつもの岡野だった。 無駄な動きがなく、紙を扱う手にも迷いがない。箱を受け取り、中の白紙をざっと改め、数だけ確かめているように見える。だが、その“ざっと”が厄介なのだ。長く帳面と証文を扱...